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小谷 学
MANABU KOTANI

和歌山の少年から、上海・香港・東京を結ぶ国際ビジネスの実践者へ。言語、文化、制度、資本、人材を越境させ、日本と世界の間に新しい道をつくる。

北京大学EMBAで講義する小谷学
25+ YEARS ACROSS ASIA国際経験を、実務の力へ。
1973和歌山県生まれ
1997上海留学開始
2004上海で起業
3,500+セミナー参加企業・受講者
25+アジア実務年数

PROFILE

直感で動き、現場で学び、国境を越えて仕組みをつくる。

小谷学は、国際貿易、中国・香港ビジネス、日本進出支援、外国人向け不動産、人材育成を横断して活動する実務家です。1990年代の中国留学を出発点に、上海での企業勤務、物流改革、2004年の起業、香港法人の運営、全国規模の中国ビジネスセミナー、大学講義、政治への挑戦、東京での不動産事業へと活動領域を広げてきました。

その仕事に一貫しているのは、制度の説明だけで終わらず、現場の文化や交渉の癖まで理解し、取引・移住・雇用・投資が実際に動くところまで伴走する姿勢です。

「思考は現実化する」
寧静至遠 — 静かなる心こそ遠くへ至る

LIFE MAP

和歌山から世界へ。人生を動かした主要な転換点。

和歌山県海南市に生まれる

海と山に囲まれた環境、公務員家庭、地域社会の中で幼少期を過ごす。

東京商船大学へ

航海学と国際物流を学び、上京生活と多様なアルバイトを経験。

上海師範大学へ留学

中国語と中国社会を教室の外でも学び、日中ビジネスへの関心を深める。

上海で企業勤務

船舶塗料、造船所、保税物流の現場で国際取引と組織改革を経験。

上海で独立・起業

貿易代理、工場発注、物流、品質管理を一体化した事業を開始。

講演・教育活動を全国展開

ネット集客を活用し、大学、企業、商工団体で中国ビジネスを講義。

衆議院選挙に挑戦

福岡2区から出馬し、政治と社会の現場を体験。

東京で不動産・日本進出支援

海外投資家、外国人起業家、海外企業に向けた総合支援へ。

アジア人材と日本企業を結ぶ

ネパール、スリランカ、中国、香港などを結ぶ人材・事業支援を展開。

BUSINESS FIELDS

複数の専門領域を、ひとつの「国際支援」に統合する。

01

海外企業の日本進出

法人設立、事業計画、オフィス・住居、取引先探索、専門家連携までをワンストップで支援。

02

国際貿易・中国調達

中国工場の探索、価格交渉、品質管理、コンテナ輸送、通関、三国間貿易を実務面から支援。

03

香港法人・国際拠点

香港をアジアの事業拠点として活用するための設立・運営・国際取引の相談に対応。

04

外国人向け不動産

日本での住居、オフィス、店舗、投資用不動産の探索と契約を多言語・多文化の視点で支援。

05

外国人材の育成・紹介

日本語、技能、生活教育を組み合わせ、日本企業と海外人材の長期的な定着を支援。

06

講演・調査・情報発信

現場経験に基づく国際ビジネス、経済、地域活性化、外国人支援に関する講演と提言。

日本と世界を結ぶ架け橋のイメージ

MISSION

国境の違いを、成長の可能性へ変える。

言語の違い、商習慣の違い、制度の違い。そのすべてを障壁として見るのではなく、新しい取引と協働を生む設計条件として捉える。

FUTURE BUSINESS VISION

経験を次の成長へ。国際案件を動かすビジネスプラットフォームへ。

小谷学がこれから重点的に進める事業を、4つの戦略領域と実行ロードマップに整理しました。

MASTER PLAN

小谷学の将来構想・全体像

複数の事業を個別に運営するのではなく、「国際ビジネス支援」という一つのブランドに統合します。

全体構想を読む

LONG FORM BIOGRAPHY

和歌山の少年から国際ビジネスマンへの軌跡

幼少期、学生時代、中国との出会い、起業、教育、政治、精神的体験、そして現在の活動までをまとめた長編記録。

和歌山の少年から国際ビジネスマンへの軌跡

プロローグ──人生は予測不可能な冒険である

人生を振り返ると、まるで一本の映画のように思える。和歌山の小さな町で生まれた少年が、どうして上海で起業し、香港に法人を構え、スリランカ政府の特命大使になったのか。衆議院選挙に出馬し、両目の視力を失いかけ、そして奇跡的に回復する──この物語は、私自身が生きてきた現実そのものである。

この半生記は、単なる自己紹介ではない。これは、「人生には不可能なことなどない」という信念を証明する記録であり、「直感と行動力があれば、運命は切り開ける」という実践の記録である。

第一章:幼少期──和歌山の海と山に囲まれた少年時代(1973年~1986年)

海南市という故郷

1973年、私は和歌山県海南市という人口約5万人の小さな町で生まれた。海南市は和歌山県の北部に位置し、海と山に囲まれた自然豊かな地域である。和歌山県は県面積の約80%が山地という日本でも有数の山岳地帯であり、私の育った海南市も例外ではなかった。

私の家は高台にあり、そこから見下ろすと貴志川という川が流れていた。幼少期の記憶の中では、夏になるとこの川で泳いだことが多く、海水浴の思い出よりも川遊びの思い出の方が強く残っている。海に囲まれた町でありながら、山側で育った私にとって、川が最も身近な自然だったのである。

公務員一家という環境

私の家族は、いわゆる公務員家庭だった。父は和歌山県庁職員、母は幼稚園の先生を経て農協(JA)に勤務、祖母は海南市役所職員という、安定した公的機関に勤める家系だった。

特に興味深いのは祖父の経歴である。彼は少年兵として海軍に入り、海軍兵学校の教官を務めていた。さらに、戦時中には特攻隊関連の業務にも携わっていたと聞かされている。しかし、戦争が終わるとGHQ(連合国軍総司令部)による追及を恐れ、約10年間消息を絶っていたという。家族の話では、おそらく九州の炭鉱などで身を隠しながら働いていたのではないかと言われている。

この祖父の経歴は、後に私が東京商船大学(現・東京海洋大学)を選ぶ際の潜在的な影響となった。海軍と商船学校──このつながりは、私の人生の選択に見えない形で作用していたのかもしれない。

「悪ガキ」としての小学校時代

地元の公立小学校である中野上小学校に進学した私は、次第に「問題児」としての道を歩み始めた。特に小学校6年生の頃には、いわゆる「悪名高い3人組」の中心メンバーの一人となり、学級崩壊を引き起こすまでになった。

先生に対して反抗することも多く、私たちの行動が原因で担任の先生が転勤になってしまったという事実は、今振り返っても大きな反省点である。しかし、この時期に学んだことがある──それは、「集団を動かすには強いリーダーシップが必要だ」ということだった。

野球部に所属していたが、私のチームは弱小チームで、ほぼ毎回1回戦敗退という惨憺たる成績だった。しかし、この経験が私に「勝つためには何が必要か」を考えさせるきっかけとなった。

第二章:中学時代──荒れた学校で生き抜く術を学ぶ(1986年~1989年)

東海南中学校という戦場

地元の東海南中学校に進学した私を待っていたのは、まるで北斗の拳のような世界だった。当時はビーバップハイスクールやヤンキー文化が全盛期で、学校は頻繁に荒れていた。「こんな中学生、本当にいたのか?」と思うほど、手のつけられないような生徒が数多くいた。

この環境で生き残るため、私は筋力トレーニングにのめり込んだ。陸上部のキャプテンとして投てき競技(砲丸投げ・円盤投げ)に打ち込む一方で、実際には「地元で喧嘩に負けないために」体を鍛えていたという側面が強かった。

生徒会長という矛盾

驚くべきことに、私は問題児でありながら生徒会長にも立候補し、当選した。私の生徒会運営は独特で、体育祭の運営を学校の悪ガキたちに任せるという手法を取った。結果として、彼らが仕切ることで驚くほどうまく運営でき、先生たちからも評価された。ただ、実態は「恐怖政治」に近かったかもしれない。

この経験を通じて学んだのは、「集団を統率するには強いリーダーシップが重要だ」ということだった。そして、もう一つ重要な学びがあった──それは、「結果を出せば文句は言われない」という社会の現実である。

「成績が良ければ許される」という矛盾

私は問題児だったが、進学塾に週6日通っていたため、成績は学年5位以内に入っていた。そのため、先生たちは私に対してあまり厳しく叱ることはなかった。

この矛盾した対応を目の当たりにし、私は子供ながらに「結局、社会は結果重視であり、結果さえ出せば許される」ということを学んだ。この認識は、後の人生で大きな影響を与えることになる。

第三章:高校時代──進学校での競争と新たな選択(1989年~1992年)

近畿大学附属和歌山高等学校への進学

私は近畿大学附属和歌山高等学校に進学した。この学校は地元では進学校として知られ、「現役で国立医学部を目指せ」という教育方針のもと、難関大学を目指す生徒が多い環境だった。

高校入試では約2000人の受験者の中で上位25位という成績で合格し、最も学力の高い「アドバンスクラス」に入った。しかし、このクラスに入ると、それまでの「努力すれば勝てる」という感覚は通用しなかった。クラスメイトは地元だけでなく、大阪南部などの進学塾で鍛えられた優秀な生徒たちだった。

東京商船大学という選択

高校3年生の進路決定の時期、私の親から「現役で国立大学に入学したら車を買ってあげる」と言われた。この言葉に惹かれて現役合格できる国立大学を探した結果、最終的に選んだのが東京商船大学(現・東京海洋大学)だった。

この選択には複数の理由があった。まず、祖父が海軍で活躍していた影響で、幼い頃から海の世界に興味があった。次に、理系の成績は良かったが、研究者には向いていないと感じていた。そして、少し変わった分野を学びたいという思いがあった。

この選択が、後の人生を大きく変えることになる。

第四章:大学時代──上京、アルバイト、そして中国との出会い(1992年~1997年)

東京という大都会

和歌山の田舎から東京の大都会に上京した私は、最初は右も左も分からず、東京での生活に慣れるのに時間がかかった。最初に住んだのは東京都江戸川区の葛西で、ここから私の東京暮らしが始まった。

大学時代の思い出を振り返ると、学業よりもアルバイトに時間を費やしていた。居酒屋、串カツ屋、ドーナツ屋、宅配ピザなど、様々な仕事を経験した。特にドーナツ屋では相当気合を入れて働き、店長から「アルバイト店長にならないか?」と言われるほどだった。

中国人留学生との出会い──運命の転換点

大学生活で最も影響を受けたのは、中国人留学生たちとの出会いだった。私は子供の頃、父が日中国交正常化後の「友好の船」プロジェクトで中国を訪れた話をよく聞いていた。この影響もあり、いつか中国に行ってみたいと考えていた。

当時の中国(1990年代前半)はまだ経済発展が進んでおらず、貧しい時期だった。日本に正規留学している中国人学生たちも、決して裕福な家庭の出身ではなく、必死に勉強していた。しかし、彼らの多くは非常に優秀な人材であり、「こんなに優秀な人がいるのに、なぜ中国はまだ貧しいのか?」という疑問を抱くようになった。

中国人の学生に話を聞くと、「中国は国家の体制によって、若者がチャンスを掴みにくい。だから海外に出るしかない」と言っていた。さらに、中国の社会構造についても知ることになる。家系(出身階層)がすべてを決め、生まれた家のバックグラウンドによって将来が決まるという現実。いい家に生まれれば良い人生が待っているが、そうでなければ努力しても報われない。海外に出ることが人生を変える唯一の方法だという。

この話を聞いて、「中国という国は一体どんな国なのか?」という興味が一気に強まった。

中国留学の決断

ある日、大学の学生課の前を歩いていた時、「日中友好協会──中国の大学に留学しませんか?」という掲示板を偶然見つけた。興味を持ち、すぐに電話して問い合わせた結果、上海に留学することを決めた。

どの大学がいいのか分からなかったが、「上海なら楽しい学生生活が送れるだろう」「男ばかりの学校より、女子が多い大学の方がいい」という単純な理由で、上海師範大学を選んだ。この直感的な決断が、私の人生の方向を決定づけることになる。

第五章:上海留学時代──言葉よりも経験で学んだ2年間(1997年~1999年)

上海師範大学での生活

1997年、私は上海師範大学に留学した。この2年間は、単なる語学学習ではなく、中国という国を体験し、現地の文化を深く知る時間となった。

留学の目的はもちろん中国語の習得だったが、教科書だけでは身につかないことも多く、私は「実践の場で学ぶ」という方法を選んだ。毎日大学の正門で学生の女の子をナンパし、とにかく会話の機会を増やすことを実践した。

ナンパをしていると、フランス人の留学生が興味を持ち、「お前たちは何をしているんだ?」と聞かれ、私が「中国語を学ぶためにナンパしている」と答えると、「じゃあ俺も混ぜてくれ!」と言われ、ここで国境を越えた友情が芽生えた。

ダークな中国──表と裏の世界

留学中、私は上海という都市の表の部分だけでなく、裏の世界にも足を踏み入れた。怪しいナイトスポット、裏社会のネットワーク、インターネットでは書けないようなディープな中国──こうした場所に出入りしていると、現地の中国人からも「お前たち、よくそんな所に行くな」と言われることが増えた。

この経験を通じて、中国の光と影の両方を見ることができたのは、私にとって貴重な学びだった。そして、この経験が後の貿易ビジネスにおいて、「中国の実態を知る人間」としての強みとなった。

中国ビジネスへの興味

留学中、私は「どうすれば中国と日本をつなぐビジネスができるのか?」を考え始めた。そして、中国人の友人と協力し、個人輸入代行業を始めた。日本では手に入らない中国の商品を仕入れ、日本で販売する小さなビジネスだったが、この経験が後に貿易コンサルティングを始めるきっかけとなる。

第六章:社会人時代──日本企業での経験(1999年~2003年)

トランスコスモスでのITスキル習得

1999年、大学を卒業した私はトランスコスモス株式会社に就職した。この会社は東証一部上場のITソリューション企業であり、私の出身地である和歌山県発祥の企業でもあった。

入社後、私は開発部門で働くことになり、パソコンを使ったインターネット関連の研究、ホームページ制作の基礎を学んだ。この時に習得した知識は、後のビジネスでも大いに役立った。実際、今でも私は自分のビジネスのホームページを全て自作している。

しかし、開発の仕事がつまらなく感じるようになり、営業部門へ異動した。だが、「中国で仕事をしたい」という目標があったため、「いつ中国に派遣されるか分からない」という状況に不安を感じ、次のキャリアに進むために退職を決意した。

NTTでの営業経験──「国営企業ブランド」の強さ

トランスコスモスを退職後、つなぎの仕事としてNTTの営業職を選んだ。当時、日本の通信業界では電話回線の民営化が進んでおり、NTTユーザーに対して「マイライン登録」の営業活動が行われていた。

私はこの営業担当として働いたが、「NTTです」と言うだけで、誰もが話を聞いてくれることに驚いた。特に田舎では、「NTT以外の選択肢がある」ということ自体を知らない法人が多かった。そのため、私は特に苦労することなく営業成績を上げることができ、一時期は全国表彰されるほどの営業成績を記録した。

この経験から、「ブランドの力は絶大だ」ということを実感した。

中国塗料での船舶業界経験

2001年、ついに私は中国での社会人生活をスタートさせることができた。日本の東証一部上場企業である中国塗料の上海現地法人に就職したのである。

私が担当したのは、船舶の塗装に関する営業および管理業務だった。造船所を回り、塗料の販売、船の修繕・新造時の塗装管理、現場監督として塗装作業のチェックなどを行った。

この業界では、東京商船大学の卒業生というだけで信頼を得やすいというメリットがあった。業界内では学閥が非常に強く、先輩後輩の関係がビジネスに直結する世界だった。

しかし、仕事環境の過酷さ(塗料のシンナーによる健康リスク)と、人間関係の難しさ(成果を出しても学閥の壁で評価されない)により、最終的には退職することになった。

高砂倉庫での物流改革

中国での2社目として、私は上海の外高橋保税区にある福岡県の物流倉庫会社「高砂倉庫」に就職した。入社してすぐに気づいたのは、社内が完全に崩壊していることだった。チームワークが全くなく、社員の仕事意識が低く、ミスが多発していた。

私はこの崩壊した体制を立て直すことをミッションとし、4〜5ヶ月で業務の改革に成功した。さらに、取引先との価格交渉でも「喧嘩殺法」とも言える強気の交渉を仕掛け、値上げ交渉に成功した。

しかし、私が改革を成功させたことで、3年間問題を放置していた専務が嫉妬し始め、最終的には喧嘩別れのような形で退職することになった。

第七章:起業と中国ビジネス黄金時代(2004年~2013年)

2004年──上海での独立

2004年、私は上海の物流倉庫会社を退職し、ついに起業することにした。起業の最初のきっかけは、上海で知り合った日本企業の駐在員からの依頼だった。「中国のメーカーと取引をして、自動車メーカー向けの金属製ラックを上海の工場で生産したい」という案件を手伝うことで、最初のビジネスをスタートさせた。

ホームページを活用した集客戦略

最初の取引先は1社だけだったが、私はすぐに「もしこの会社が取引をやめたら終わりだ」と危機感を持った。そこで、インターネットを活用することにした。

私はトランスコスモス時代にITを学んでいたので、ホームページの作成、ウェブマーケティングに関する知識を持っていた。ポータルサイトに顔写真入りのバナー広告を掲載し、知名度を上げる戦略を取った。海外では「信用がない」のが当たり前なので、「顔を出しておけば、少しでも信用が上がるだろう」と考えた結果だった。

動画マーケティングの先駆け

現在ではYouTubeを活用した動画マーケティングは当たり前だが、2004年当時はYouTubeすら存在しない時代だった(YouTube創業は2006年)。私は自前のサーバーに動画をアップロードし、ストリーミング配信を実施していた。

「中国現地の情報を動画で見られる」というのは非常に珍しく、これが大きな反響を呼んだ。特に2006年頃から始まった「上海進出ブーム」の影響で、日本全国から多くの企業が中国市場に興味を持つようになった。

セミナービジネスの展開

貿易コンサルティング会社として、私は中国ビジネスセミナーを開催するようになった。2006年から2010年にかけて、日本全国および中国各地で毎週のようにセミナーを開催し、約3,500社の企業、約3,500名の個人受講者に対して、中国市場の現状、貿易実務、法規制、成功事例、失敗事例などを詳しく解説した。

特筆すべきは、これらのセミナー集客をすべて自身のインターネットブログやメールマガジンを通じて実施した点である。当時としては先進的なデジタルマーケティング手法を駆使し、全国から参加者を集めることに成功した。

北京大学での快挙

中国ビジネスの専門家としての認知が広がる中で、私は大学での講義の依頼も受けるようになった。特に印象的だったのが、「北京大学のエグゼクティブMBAプログラムで講師を務めたこと」である。

私は大学時代、卒業論文で「中国経済」をテーマにしようとしたとき、教授に却下された過去がある。「お前は東京商船大学の学生なのに、なぜ中国経済の論文を書きたいんだ?却下!」と言われた。結局、「船舶の揺れによる危険物の爆発リスク」という、興味もないテーマで論文を書くことになった。

しかし、その私が、後に北京大学で貿易の講義をすることになったのである。この瞬間、私は「やればできるじゃないか」と自分自身を誇りに思った。

2012年──尖閣諸島問題と中国ビジネス黄金時代の終焉

順調に見えた中国ビジネスだったが、2012年に転機が訪れた。尖閣諸島の漁船衝突問題をきっかけに日中関係は一気に悪化した。同時に、中国政府の規制も厳しくなり、日本企業の進出が減少、中国ビジネス環境が悪化するという状況になった。

私の周りでも、多くの日本人経営者がベトナムなど東南アジアに移住する流れが加速した。結果として、「上海ビジネスの魅力」が大きく低下していった。

第八章:2012年衆議院選挙への挑戦(2012年)

なぜ政治の世界へ?

2012年は、私にとって大きな転機となった年だった。それまで上海でビジネスを展開していたが、「日本で新しい挑戦をするべきではないか」と考え、衆議院選挙に出馬するために日本へ帰国する決断をした。

私が政治に興味を持ったのは、日本経済の衰退や国際的な立場の低下を目の当たりにしたからである。特に、中国でのビジネスを通じて、日本企業の競争力の低下、海外市場での日本の影響力の減少を強く感じていた。

福岡2区からの出馬

最初は自民党から出馬を希望したが、「支部長になるのは無理」と門前払いされた。最終的に、民主党が「国民の生活が第一」という新党に分裂した際、偶然にも民主党側の事務局長が私の友人だったため、そこから出馬することになった。

私が立候補したのは福岡2区で、福岡市の中心部(中央区・南区・城南区)を含む都市型の選挙区だった。しかし、私は福岡出身ではなく、完全な「落下傘候補」だった。そのため、地元の人脈もなく、ゼロからのスタートとなった。

選挙戦と結果

2週間の選挙戦の結果は惨敗だった。しかし、選挙に出ることで、政治の裏側を知ることができた、日本の選挙システムを理解できた、多くの新しい人脈を得ることができたという点では、大きな経験となった。

選挙後、「もう一度、同じ選挙区で戦うか?」と考えたが、福岡に地盤がなかったこと、政治活動を続けるリソースがなかったことなどの理由から、一度選挙の世界から離れる決断をした。

第十章:新たな挑戦──不動産と貿易の融合(2015年~現在)

2015年──東京不動産会社の創業

2015年、私は東京で新たなビジネスをスタートさせた。それが不動産事業である。妻が「宅地建物取引士(宅建)」の資格試験に合格したことがきっかけだった。

東京都港区赤坂に不動産会社を登記し、本格的に業務をスタートさせた。実は、私自身に不動産の経験は全くなかったが、インターネットを活用した集客戦略により、徐々に顧客が増え、物件の売買もできるようになった。特に印象的だったのは、2億円を超える一棟マンションの売却に成功したことである。

私は海外生活が長かったこともあり、外国人投資家とのつながりがあった。そこで、日本の不動産に興味を持つ外国人投資家へも物件を紹介するようになった。2015年以前は主に中国人投資家からの相談が多かったが、2020年以降は中国市場が落ち着き、東南アジアなどの新興国投資家が増加している。

2016年──日本法人の再設立と貿易事業の再開

2016年、私は再び日本で事業を展開することを決意し、貿易商社として法人を設立した。主に中国からの建築資材の輸入を行う貿易事業を中心に活動を開始した。

なぜ足立区で起業したのか? 東京での創業場所を考えていた際、意外にも「足立区が創業支援に力を入れている」ことに気づいた。さらに、足立区には建築関連の業者が多く、事業の展開に適した環境であることが分かった。

そこで、足立区の「創業支援制度」を活用し、正式に法人を設立した。最初のオフィスは、足立区の公的なインキュベーション施設「かがやき」にある事務所を借り、ビジネスをスタートさせた。

具体的には、中国で建築資材を発注、コンテナ輸送にて日本へ輸入、日本の建築現場に納品というビジネスモデルを展開した。このビジネスモデルは、上海時代の貿易業務の延長線上にあったため、中国の工場ネットワークを活用し、スムーズに事業を進めることができた。

香港法人の再設立

事業の拡大に伴い、2016年には香港に現地法人を再設立した。私が香港で法人を設立したのは、これで2度目である。最初の設立は2006年だったが、2016年に完全に独立した形で新たな香港法人を設立することを決断した。

香港法人を活用する理由は明確だった。中国貿易のゲートウェイとして、中国と海外の資金移動には厳しい規制があるため、香港を経由することで資金管理がしやすくなる。また、キャピタルゲイン税の非課税、国際送金の利便性、オフショア企業としての活用など、多くのメリットがあった。

第十一章:精神世界との邂逅──見えない世界のつながり

2005年──法然上人の夢枕

2005年頃、私は上海での仕事の合間に一時帰国し、日本で不思議な体験をした。それは、ある意味で「日中の架け橋」となる運命を予言されていたかのような出来事だった。

神戸の社長の紹介で出会った祈祷師から、「あなたの家の北側にある何かがあなたを呼んでいる」と言われた。私はピンときた。「私の実家の北側には、うちの家系のお墓があります」。

実家に帰り、仏壇の前で手を合わせた瞬間、何かがパッと通り過ぎる感覚があった。その時、心の中で「左の仏像の人が来ましたね」と思った。すると父が、「その仏像は、法然上人だ」と言った。

その夜、私は夢の中で法然上人と出会った。彼は私にこう語りかけた。「私は南無阿弥陀仏を学びましたが、中国に行ったことがなかった。だから、あなたに行ってもらいました。南無阿弥陀仏を唱えて、日中の平和を祈ってください」。

翌日、船井総研という大手コンサルティング会社から突然連絡があった。「上海で法人を設立したいが、美容室の営業許可がなかなか降りないので助けてほしい」という相談だった。この依頼をきっかけに、中国でのコンサルティング事業を本格的に始めることになった。

2007年──マハリシとの出会いと通貨発行権への関心

2007年、私はTM瞑想(超越瞑想)関連の企業のコンサルティングを担当していた。その際、ビートルズにTM瞑想を指導したことで世界的に知られたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから、「通貨発行について研究しなさい。そして貿易についても行いなさい」という予言的なメッセージを受けた。

マハリシ先生が上海の私のオフィスに直接電話をかけてきたのである。瞑想を普及させることはTMの理念として理解できたが、なぜ通貨発行なのか? その時はよく分かりませんでしたが、先生の言葉が引っかかり、そこから金融・国際経済の研究を始めるきっかけになった。

マハリシ先生との会話の約半年後、彼はこの世を去った。しかし、彼の言葉は私の中で生き続け、その後15年間にわたり国際金融・通貨発行権についての探究を続けることになった。現在は、ODA開発援助事業、国際非営利財団との連携、世界各国への資金提供プロジェクトなど、グローバルな金融システムの変革に関わる仕事をしている。

パワースポット巡り──日中の精神世界を旅する

2002年から2013年にかけて、私は日本と中国の仏教遺跡やパワースポットを巡る旅をしていた。日本の多くの仏教僧が修行のために中国へ渡った歴史を知り、私自身も長年中国で暮らしていたこともあり、時間があれば日本の僧侶が修行した中国の寺院を巡っていた。

山東省の泰山では、歴代皇帝が即位式を行った聖なる山で「皇帝のパワー」を感じた。浙江省の国清寺では、日本に仏教を伝えた鑑真や道元が修行した寺に泊まり、不思議な夢を見た。山西省の五台山では、文殊菩薩の霊場で別次元にいるような神秘的な感覚を体験した。

こうした体験を通じて、私は「パワースポットは、単なる観光地ではない。そこには歴史・宗教・エネルギーが交差する深い意味がある」ということを学んだ。

第十二章:国際的な展開──スリランカとの架け橋(2020年~現在)

スリランカ政府の特命大使就任

2020年、私はスリランカ政府の文部省「職業訓練庁(Vocational Training Authority)」の特命大使という資格を与えられ、スリランカと日本の架け橋としての役割を担うことになった。

ある知人の紹介で、スリランカ政府の文部省職業訓練庁の長官と知り合った。彼からの依頼は、スリランカと日本の関係を深めたい、スリランカの人材を日本の企業で働けるようにしたい、日本企業の進出を促し、スリランカ国内での雇用を増やしたいというものだった。

スリランカは2022年に国家財政破綻を宣言し、深刻な経済危機に陥っている。外貨不足により、燃料・医薬品・食料の輸入が困難になり、若者の就職難も深刻化している。しかし、スリランカは親日国として長年の友好関係を維持しており、日本からのODAや民間投資への期待が大きい。

今後の展開として、日本企業向けの進出サポート、スリランカ人材の日本企業へのマッチング、貿易事業の拡大などの可能性を模索している。スリランカとの貿易・人材交流を強化し、スリランカと日本の関係強化を目指している。

第十三章:現在の事業展開と今後のビジョン

多角的なビジネスポートフォリオ

現在、私は複数の事業を同時に展開している。東京都港区を拠点とした不動産事業では、海外投資家向けの日本不動産投資サポートを中心に、売買仲介、賃貸管理、投資コンサルティングを提供している。

貿易事業では、HONG KONG JCBO LIMITEDを通じて、中国からの建築資材輸入、日本企業の中国進出支援、三国間貿易のコーディネートを行っている。特に建築資材分野では、日本の建材高騰という課題に対して、中国工場からの直接調達という解決策を提供している。

国際コンサルティング事業では、香港法人設立サポート、中国ビジネスリモートサポート、スリランカ進出支援など、アジア全域をカバーするサービスを展開している。

中国建材市場の最新動向研究

2024年以降、私は中国建材市場の最新動向を継続的に研究し、情報発信している。中国の住宅建材業界における海外輸出の急増、地方政府主導の産業支援政策、国産ブランドの台頭、グリーンビルディングへの転換など、重要なトレンドを把握し、日本企業へのアドバイスに活用している。

中国国家建築材料グループのような大手企業の動向、山東省などの地方政府による産業変革計画、個別企業の成功事例など、多角的な視点から中国建材市場を分析している。

日本経済再生への貢献

私は、単なるビジネスの成功だけを目指しているわけではない。日本経済再生機構および地方創生支援機構という民間シンクタンクを立ち上げ、経済政策の提言や地域経済活性化に向けた取り組みを進めている。

長年海外で生活してきた経験から、経済力は国際的評価に直結することを深く理解している。現在の日本は、世界経済における地位が年々低下し、海外では「日本は終わった」との厳しい評価が広がりつつある。こうした状況に対し、「このままではいけない」という強い危機感を抱いている。

海外から日本が再び高く評価され、国民が誇りを持てる社会の実現に向けて、経済活性化に寄与する事業に取り組んでいる。

今後のビジョン──グローバルとローカルをつなぐ

これまでの25年間、私は日本と中国、そしてアジア各国を結ぶ「架け橋」としての役割を果たしてきた。今後もこの役割を継続し、さらに発展させていきたいと考えている。

具体的には、以下の3つの方向性を重視している。

①日本企業の国際競争力強化

中小企業を中心に、海外調達、海外進出、海外販路開拓を支援し、グローバル市場での競争力を高める。

②アジアの成長力を日本に取り込む

中国、東南アジア、南アジアの経済成長の恩恵を日本に取り込むため、貿易、投資、人材交流を促進する。

③次世代への知識の継承

20年以上にわたる国際ビジネスの経験と知見を、次世代の起業家やビジネスパーソンに伝え、日本の国際競争力向上に貢献する。

エピローグ──「思考は現実化する」という信念

私の座右の銘は「思考は現実化する」である。これはナポレオン・ヒルの名著から影響を受けたもので、明確なビジョンと強い信念を持ち続けることで、必ず目標は達成できるという考え方を表している。

振り返れば、私の人生は常に「直感」と「行動」によって切り開かれてきた。上海師範大学を選んだのも、「女性が多い大学の方が楽しそう」という単純な理由だった。北京大学で講義をすることも、衆議院選挙に出馬することも、両目の視力を失いながら回復することも、すべて予測不可能な出来事だった。

しかし、その一つ一つが、私という人間を形成し、今のビジネスにつながっている。法然上人の夢、マハリシからのメッセージ、中国人留学生との出会い──これらすべてが、見えない糸で結ばれているように感じる。

人生には、目に見えない導きが確かに存在する。そして、その導きに従いながらも、自分自身の意志で行動することが重要だ。「寧静至遠(静かなる心こそ遠くへ至る)」という中国の古典的な言葉のように、落ち着いた心と冷静な判断力を持ちながら、遠大な目標に向かって進み続けること──これが私の生き方である。

読者へのメッセージ

この半生記を読んでくださった皆様へ。もしあなたが今、人生の岐路に立っているならば、あるいは新しい挑戦を躊躇しているならば、私の経験が少しでも参考になれば幸いである。

人生において試練は避けられない。しかし、すべてを懸けて成し遂げるべきことがある。運命は変えられないかもしれないが、それを示す羅針盤から逃げることなく歩み続ければ、必ず光が差す。継続こそが成長を生む。

私の物語はまだ終わっていない。これからも、日本と世界を結ぶ架け橋として、新たな挑戦を続けていく。そして、その経験を通じて得た知見を、次の世代に伝えていきたいと考えている。

皆様も、自分自身の直感を信じ、恐れずに一歩を踏み出してほしい。そこには必ず、新しい世界が待っている。

第十四章:2024年以降──新たな時代の架け橋として(2024年~現在)

時代の転換点──中国企業の日本進出という新潮流

2024年以降、私のビジネスは新たな局面を迎えている。これまで20年以上にわたり、日本企業の中国進出を支援してきたが、現在はその逆──中国企業の日本進出支援という、まったく新しいステージに入っているのである。

中国起業家が日本を目指す理由

かつて、中国は「世界の工場」として、日本企業が進出する先だった。しかし、時代は大きく変わった。中国経済の成熟化、不動産市場の低迷、若者の起業意欲の高まり、そして何よりも「日本市場の魅力」の再発見──これらの要因が重なり、優秀な中国人起業家たちが日本に進出してくるケースが急増している。

彼らが日本を選ぶ理由は明確だ。日本は政治的に安定しており、法制度が整備され、知的財産権が保護されている。中国国内の不確実性が高まる中で、日本は「安心してビジネスができる場所」として再評価されているのである。

また、日本の消費者市場は成熟しており、高品質な製品やサービスへの需要が高い。中国で成功した起業家たちにとって、日本市場は次なる挑戦の場として魅力的なのだ。

中国企業日本進出支援の実務

私が提供している中国企業向けの日本進出支援サービスは、多岐にわたる。まず、日本での法人設立手続きのサポート。株式会社、合同会社など、事業内容に応じた最適な法人形態を提案し、登記から税務申告まで一貫してサポートしている。

次に、オフィス・店舗物件の紹介。東京都心部を中心に、ビジネスに適した物件を選定し、契約交渉を代行する。中国人起業家にとって、日本の不動産契約は複雑で理解しにくいため、この支援は非常に重要だ。

さらに、ビジネスマッチングも行っている。日本の取引先候補の紹介、業界団体への参加支援、展示会への出展サポートなど、日本市場でのネットワーク構築を全面的にバックアップしている。

私の強みは、日本語と中国語の両方に精通し、両国のビジネス文化を深く理解していることだ。20年以上の中国ビジネス経験と、日本での起業・経営経験を持つ私だからこそ、中国企業が日本で直面する課題を事前に予測し、適切な解決策を提供できる。

ネパールとの新たな架け橋──特定技能人材育成への挑戦

2024年以降のもう一つの大きな事業展開が、ネパールにおける特定技能人材の育成と日本企業への紹介である。これは、私にとってスリランカに続く、南アジアとの新たな架け橋を築く挑戦となっている。

日本の外国人材需要という現実

日本は少子高齢化により、深刻な労働力不足に直面している。特に、建設業、介護、農業、製造業、飲食業などの分野では、外国人材なしには事業の継続が困難な状況になっている。

こうした状況を受け、日本政府は2019年に「特定技能」という新しい在留資格を創設した。これは、一定の技能と日本語能力を持つ外国人が、日本で最長5年間(特定技能2号の場合は制限なし)働くことを認める制度である。

しかし、制度は整備されたものの、実際に日本で働きたい優秀な外国人材を見つけ、適切な教育を施し、日本企業とマッチングするという実務は容易ではない。ここに、私のビジネスチャンスがあった。

なぜネパールなのか

私がネパールに着目した理由は複数ある。まず、ネパールは親日国であり、日本で働きたいという若者が多い。次に、ネパール人は真面目で勤勉な国民性を持ち、日本の職場文化にも適応しやすい。さらに、ネパール政府も自国民の海外就労を奨励しており、政府レベルでの協力体制が整っている。

そして何より、ネパールには未開拓の人材プールが存在する。これまで日本企業は、フィリピン、ベトナム、インドネシアなどからの人材受け入れに注力してきたが、ネパールは相対的に未開拓の市場だった。

ネパール全土25校での特定技能育成

私は現在、ネパール全土で25か所の特定技能育成学校においてディレクターとして関わり、外国人材の育成と日本企業への紹介を行っている。これは、ネパール政府公認の送り出し機関としての正式な業務である。

特定技能育成学校では、以下のようなカリキュラムを提供している。

①日本語教育

日本語能力試験N4レベル(日常会話ができるレベル)を目標とした集中的な語学教育。日本での生活や仕事で必要となる実践的な日本語を習得させる。

②専門技能訓練

建設、介護、農業、製造など、各分野で必要とされる実務的な技能を訓練する。実際の作業を模擬的に体験させることで、日本到着後すぐに現場で活躍できるレベルを目指す。

③日本文化・ビジネスマナー教育

日本の職場文化、ビジネスマナー、生活習慣などを教育する。時間厳守、報告・連絡・相談の重要性、チームワークの考え方など、日本企業が重視する価値観を理解させる。

④特定技能試験対策

日本政府が実施する特定技能試験(技能試験と日本語試験)に合格するための対策講座を提供する。

ネパール全土25校という規模は、単一の組織が運営する送り出し機関としては最大級である。首都カトマンズだけでなく、地方都市にも学校を展開することで、幅広い地域から優秀な人材を発掘できる体制を構築している。

日本企業とのマッチング

育成した人材を日本企業に紹介する際には、単なる人材紹介にとどまらない。企業の業種、規模、社風、求める人材像を詳しくヒアリングし、最適な人材をマッチングする。また、受け入れ後のフォローアップも重視しており、ネパール人材が日本で安心して働き、企業にとっても貴重な戦力となるようサポートしている。

私の強みは、日本企業の視点とネパール人材の実情の両方を理解していることだ。日本企業が求める人材像を把握しつつ、ネパール人材の強みと課題も理解している。この両面からのアプローチにより、高いマッチング成功率を実現している。

外国人向け不動産サービスの展開

私の不動産事業も、2024年以降は外国人向けサービスに大きくシフトしている。日本で働く外国人材、日本でビジネスを展開する外国人起業家が増える中で、彼らの住居探しをサポートすることは、重要な社会的ニーズとなっている。

外国人が直面する住居問題

外国人が日本で住居を借りる際には、多くの障壁がある。言語の問題、保証人の問題、初期費用の高さ、そして何より、外国人への賃貸を敬遠する物件オーナーの存在である。

私の不動産サービスでは、これらの問題を解決するため、外国人入居に理解のある物件オーナーとのネットワークを構築している。また、保証会社の利用、初期費用の分割払い、多言語での契約説明など、外国人が安心して住居を借りられる仕組みを整えている。

特に、中国人起業家、ネパール人技能実習生、スリランカ人ビジネスマン、その他アジア各国からの来日者に対して、それぞれの文化背景やニーズに応じたきめ細かなサービスを提供している。

外国人ビジネスサポートセンターとしての総合展開

2024年以降、私のビジネスは一つのコンセプトに集約されつつある──それが**「外国人ビジネスサポートセンター」**である。

これは、日本で活動する外国人のあらゆるニーズに対応する、ワンストップサービスを目指すものだ。具体的には、以下のような包括的なサービスを提供している。

①法人設立・ビザサポート

外国人起業家が日本で法人を設立する際の手続き代行、経営管理ビザの取得支援、税務・会計のアドバイスなど。

②オフィス・住居の提供

ビジネス用のオフィス物件、居住用の住宅物件の紹介と契約サポート。外国人に理解のある物件オーナーとのネットワークを活用。

③人材紹介・採用支援

特定技能人材、高度専門職、エンジニアなど、日本企業が必要とする外国人材の紹介。逆に、外国人起業家が日本人スタッフを採用する際のサポートも提供。

④ビジネスマッチング

日本企業と外国企業のビジネスマッチング、展示会・商談会への参加支援、業界団体への入会サポートなど。

⑤生活サポート

銀行口座開設、携帯電話契約、健康保険・年金の手続き、子供の教育機関探しなど、日本での生活全般をサポート。

⑥トラブル解決

契約トラブル、労務問題、ビザ更新の問題など、外国人が日本で直面する様々な課題の解決をサポート。弁護士、行政書士、税理士などの専門家ネットワークと連携。

新時代の架け橋として

振り返れば、私の人生は常に「架け橋」としての役割を果たしてきた。1997年に上海に留学した時から、日本と中国を結ぶ架け橋として活動してきた。2004年に起業してからは、日本企業の中国進出を支援し、数千社の企業をサポートしてきた。

そして2024年、時代は大きく変わった。今度は逆に、中国企業の日本進出を支援する。さらに、ネパールやスリランカといった南アジアの国々と日本を結ぶ架け橋にもなっている。外国人材の育成と紹介、外国人起業家の日本でのビジネス支援──これらすべてが、「架け橋」としての新たな形である。

グローバル化が進む現代において、国境を越えた人材の移動、資本の移動、ビジネスの展開は不可避の流れである。そして、その流れをスムーズにするためには、両国の言語、文化、法制度、ビジネス慣習を深く理解した「架け橋」が必要不可欠だ。

私は今後も、この「架け橋」としての役割を全うし、日本と世界を結び続けていく。25年以上の国際ビジネス経験を活かし、次の世代のために、より良い国際社会を築いていきたいと考えている。

和歌山の少年から、世界を結ぶ架け橋へ。物語は続く…

小谷学(Manabu Kotani)

HONG KONG JCBO LIMITED 代表

「思考は現実化する」「寧静至遠」

この半生記は、2024年現在までの記録である。人生の物語は続く…

人物・事業を読み解く15の視点

国際感覚の原点――地方で育つことの意味

小谷学の国際感覚は、最初から海外に近い環境で育ったことで生まれたものではない。和歌山県海南市という、海と山と地域共同体が身近にある場所から出発し、東京、上海、香港へと移動する中で、環境が変われば常識も評価基準も大きく変わることを体験した。地方での少年時代は、世界との距離を意識させる一方、自分の足で外へ出れば人生の選択肢を広げられるという感覚を育てた。地域の人間関係、学校組織、スポーツ、学習競争を通じて身につけた観察力は、後に異文化の中で相手の立場を読む力へとつながっている。国際人とは、単に外国語を話す人ではない。異なる背景を持つ人の論理を理解し、自分の立場を調整しながら共通の目的をつくれる人である。その意味で、和歌山で培った人間関係の感覚は、上海や東京の交渉現場でも重要な基礎になった。

リーダーシップ――反発する力を運営する力へ

少年期の小谷学は、従順に与えられた役割をこなすタイプではなかった。学校では問題を起こす側に回ることもあり、教師や既存のルールに反発する性格を持っていた。しかし同時に、生徒会長や陸上部キャプテンを経験し、集団の中心に立って結果を出す役割も担った。この二面性は、後の経営者人生を理解する上で重要である。組織は規則だけでは動かず、人の感情、誇り、競争心、反発心を読み取る必要がある。扱いにくい人材を排除するのではなく、役割と責任を与えることで力を組織の成果へ変える。中学時代の体育祭運営で得た経験は、上海の物流会社で崩れた組織を立て直した際にも共通する。強いリーダーシップは、声の大きさではなく、目的を示し、責任の所在を明確にし、最後に結果を引き受ける姿勢から生まれる。

東京商船大学で得た世界の見取り図

航海学を学ぶことは、船を動かす技術だけを学ぶことではない。港、貨物、気象、法規、保険、安全、国境を越える物流など、世界経済を物理的に支える仕組みを理解することである。小谷学が後に中国工場から日本へ商品を輸送し、通関や品質管理、国際決済までを一体的に扱えた背景には、この海運・物流への基礎的な理解がある。国際ビジネスでは、商談が成立しただけでは商品は届かない。どの港から出し、どの規格で梱包し、誰が危険と費用を負担し、どの時点で所有権が移るかを具体的に決めなければならない。大学時代の学びは、後年の実務の中で意味を持ち始めた。若い時期に得た知識は、その瞬間には価値が分からなくても、異なる経験と結びついた時に強い武器になる。

中国留学――言語の外側にある社会を学ぶ

1997年からの上海留学で重要だったのは、中国語の文法や語彙だけではない。市場の空気、人々の将来への期待、家族観、出身地による違い、外国人に対する距離感など、教科書に書かれない社会の構造を日々の会話から理解したことである。語学は、試験の点数ではなく、人間関係をつくり、相手の本音に近づくための道具だった。街へ出て多くの人と話し、異なる国籍の留学生とも交流し、上海の明るい部分と複雑な部分の両方を見た。この経験により、中国を一枚のイメージで説明することの危険性を学んだ。巨大な国では、地域、世代、職業、所得によって価値観が大きく異なる。国際ビジネスで必要なのは、中国を知っていると簡単に言い切ることではなく、案件ごとに相手と環境を確認し続ける姿勢である。

会社員時代――ブランドと現場の両方を知る

日本と中国の企業で働いた経験は、小谷学に二つの視点を与えた。一つは、大企業のブランドや組織力が営業をどれほど支えるかという視点。もう一つは、現場の品質や人間関係が崩れれば、どれほど立派な看板があっても事業は機能しないという視点である。NTT関連の営業では、信頼される名称を背負う強さを実感した。中国塗料の上海現地法人では、技術、造船所、塗装管理という厳しい現場を経験した。物流会社では、制度よりも先に組織の意識と作業手順を立て直す必要があった。これらの経験は、独立後の事業設計に反映された。知名度がない会社は、情報公開、顔の見える発信、迅速な対応、具体的な成果によって信用を一つずつ積み上げなければならない。

2004年の起業――一社依存から情報発信型経営へ

上海での起業は、十分な資本や多数の顧客を持って始めたものではなかった。最初の依頼を実行しながら、一社だけに依存する危険を早い段階で認識し、ホームページ、ブログ、メールマガジン、動画を使って新しい顧客との接点を増やした。当時は、海外の現場を動画で紹介する企業がまだ少なく、中国の工場や市場の様子を日本の経営者が直接イメージできる情報には大きな価値があった。小谷学のデジタル発信は、単なる広告ではなく、見えない海外取引を可視化する信用形成の手段だった。顔を出し、考えを述べ、現地の状況を継続的に伝えることで、遠隔地の顧客が相談しやすい状態をつくった。この発想は、今日の個人ブランド、動画マーケティング、専門家メディアの先取りともいえる。

セミナー活動――経験を社会の知識へ変える

2006年から2010年頃に展開した中国ビジネスセミナーは、営業活動であると同時に、現場経験を社会に共有する教育活動だった。中国進出に関心を持つ企業は多かったが、成功事例だけが注目され、失敗の原因、契約上の注意、品質管理、現地スタッフとの関係構築など、実務の細部を理解する機会は限られていた。小谷学は、自分が経験した交渉、物流、工場発注、法人運営の具体例を言葉にし、企業経営者が判断できる材料として提供した。教えることによって、自分の経験も整理され、再現可能な知識へ変わる。北京大学EMBA、中京大学、上海立信会計学院などでの講義は、理論研究者とは異なる、実務家だからこそ伝えられる教育の形を示した。

政治への挑戦――事業家が社会制度を見る視点

2012年の衆議院選挙への挑戦は、当選という結果にはつながらなかったが、社会を動かす制度と現場の距離を知る経験になった。企業経営では、顧客と契約し、商品やサービスを提供し、成果を測ることができる。一方、政治では、地域の歴史、政党組織、支援者、政策、知名度、選挙制度が複雑に絡み合う。地盤のない選挙区での挑戦は、個人の行動力だけでは越えられない構造があることを示した。同時に、海外から日本を見て感じていた経済への危機感を、社会に向けて表明する機会でもあった。この経験以降、小谷学の活動は、個別企業の利益だけでなく、日本経済、地域活性化、国際競争力という広いテーマを意識するようになった。

不動産事業――外国人が日本で直面する現実を支える

東京で始めた不動産事業は、物件を紹介するだけの仕事ではない。外国人が日本で住居や事業用物件を探す際には、言語、保証、審査、契約慣行、初期費用、用途制限など、多くの見えにくい障壁がある。海外では資産や事業実績が十分にある人でも、日本国内の信用情報や在留状況が異なるだけで、希望する契約が進まないことがある。小谷学は、中国語で事情を聞き、日本側のオーナーや管理会社が懸念する点を整理し、双方が納得できる条件をつくる役割を担ってきた。不動産は、生活と事業の土台である。住居が決まらなければ家族の来日も進まず、オフィスが決まらなければ法人の実体もつくれない。国際支援の入口として不動産を扱う意味は大きい。

香港という国際拠点の活用

香港法人は、小谷学の国際事業において、日本と中国本土、さらに第三国を結ぶ拠点として位置づけられてきた。香港は長く、国際金融、貿易、物流、専門サービスが集まる都市として機能してきた。実務では、法人を設立すること自体よりも、その会社で何を取引し、どこで利益が生まれ、どの銀行と決済し、どの国の規制を守るかを設計することが重要である。小谷学は、自身が中国本土と香港で会社を運営した経験をもとに、書類上の説明だけでは分からない維持管理や取引の現実を伝えている。国際拠点は魔法の節税装置ではなく、事業実態、会計、契約、銀行審査を整えて初めて価値を持つ。

南アジアとの接点――人材交流を長期的な関係へ

スリランカやネパールとの関係は、日本企業の人手不足を一時的に埋めるためだけのものではない。若者が日本語と技能を学び、来日前に職場文化や生活ルールを理解し、企業側も宗教、食事、家族観、将来設計を理解することで、初めて長期的な定着が可能になる。人材紹介の成功は、入社した時点ではなく、数年後に本人が成長し、企業に必要とされ、地域で安定して暮らしているかで判断されるべきである。小谷学が重視するのは、教育、紹介、住居、生活支援、企業との調整を分断せず、一つの流れとして設計することだ。国境を越える人材移動には責任が伴う。送り出す側と受け入れる側の双方に説明を尽くし、期待のずれを減らすことが、持続可能な国際人材事業の条件となる。

外国人ビジネスサポートセンターという構想

法人設立、ビザ、オフィス、住宅、採用、取引先紹介、貿易、資金調達、生活支援は、別々の専門分野に見える。しかし、日本へ進出する外国企業や起業家にとっては、すべてが同時に発生する一つのプロジェクトである。相談窓口が分かれ、専門家同士が情報を共有しなければ、時間と費用が増え、判断の矛盾も起きやすい。小谷学が目指す外国人ビジネスサポートセンターは、本人の目的を中心に置き、必要な専門家とサービスを組み合わせる総合窓口である。自らがすべての資格業務を行うのではなく、弁護士、行政書士、税理士、司法書士、金融機関、不動産会社、教育機関などと連携し、案件全体を前へ進めるプロジェクトマネージャーの役割を担う。

日本と中国の間で30年近く活動する意味

日中関係は、友好ムードが強い時期と緊張が高まる時期を繰り返してきた。政治関係が変化しても、企業間取引、留学、観光、家族、地域交流まで完全に切り離すことはできない。長く両国に関わる人の価値は、どちらか一方を無条件に擁護することではなく、感情的な対立が起きた時にも、相手側の論理を説明し、現実的な着地点を探せることである。小谷学は、中国の成長期、規制強化、日系企業の進出と撤退、中国企業の日本進出という複数の時代を現場で見てきた。時代ごとに正解は変わる。過去の成功モデルに固執せず、現在の資本、人材、技術、消費の流れを観察して事業を組み替えることが、国際ビジネスを続ける条件である。

情報発信者としての小谷学

小谷学にとってホームページやブログは、完成した経歴を飾るための場所ではなく、考えを更新し続ける作業場である。海外市場、外国人支援、不動産、貿易、経済政策など、異なるテーマを自分の言葉で書くことで、経験の中にある共通原理を見つけてきた。情報発信には、誤解や批判を受けるリスクもある。それでも、専門家が顔と名前を出し、判断の根拠を説明することは、相談者が相手を選ぶための重要な材料になる。今後のポータルサイトでは、過去の記録だけでなく、現在進行中の課題、失敗から得た教訓、国際ビジネスの変化を継続的に掲載し、個人史と実務知識が交差するメディアとして育てていくことが望まれる。

次世代へのメッセージ――世界へ出る前に自分の軸を持つ

海外へ出れば自動的に国際人になれるわけではない。言語力、専門性、約束を守る姿勢、自分の国や地域を説明する力がなければ、異文化の中で信頼を得ることは難しい。小谷学の歩みが示すのは、完璧に準備が整うまで待つのではなく、行動しながら学び、失敗を次の判断材料に変える生き方である。同時に、直感だけで進むのではなく、契約、数字、制度、物流、相手の利益を具体的に確認する現実感覚も必要になる。若い世代には、外国語を目的にせず、自分が何を交換し、何を生み出し、誰の課題を解決するのかを考えてほしい。世界は大きいが、仕事は一人の相手との約束から始まる。その積み重ねが国と国を結ぶ関係へ育っていく。

国際ビジネス実務ノート

国際案件の相談を受ける時の基本姿勢

国際案件では、相談者が最初に話す希望と、実際に解決すべき課題が一致しないことが多い。会社を作りたいという相談の背景に、在留資格、銀行口座、家族の住居、取引先との契約、資金移動の問題が隠れている場合がある。そこで最初に目的、期限、予算、関係者、資金の出所、事業の実体を整理する。相手の希望を否定するのではなく、実現に必要な条件を順番に示すことが重要である。小谷学の支援は、断片的な手続きの代行よりも、案件全体を地図として見せることから始まる。

交渉で大切にしていること

日本企業と海外企業の交渉では、言葉を翻訳するだけでは不十分である。日本側の慎重な表現が海外側には拒否と受け取られたり、海外側の強い要求が日本側には不誠実と見えたりする。交渉者は、言葉の背後にある意思決定の仕組みを説明し、双方が譲れる条件と譲れない条件を整理する必要がある。価格だけでなく、納期、品質、検査、支払時期、責任範囲を数値と文章で残す。関係を壊さずに曖昧さを減らすことが、長期取引の基礎となる。

工場発注と品質管理の考え方

海外工場への発注では、サンプルが良かったから量産品も同じになるとは限らない。材質、寸法、公差、色、表面処理、梱包、検品方法を仕様書に落とし込み、変更がある場合の承認手順を決める必要がある。低価格だけを追えば、再製作、返品、工期遅延で最終的な費用が高くなる。小谷学が重視するのは、工場を敵として監視するのではなく、発注者の期待を工場が再現できる情報に変えることだ。品質管理は検品時だけでなく、設計と契約の段階から始まっている。

国際物流を設計する視点

コンテナ輸送では、海上運賃だけを比較しても全体の費用は分からない。工場から港までの陸送、輸出通関、港湾費用、保険、日本側の通関、国内配送、荷下ろし、保管までを一つの流れとして確認する必要がある。建材や大型家具は、現場に搬入できる車両や時間帯まで考慮しなければならない。物流は商品を運ぶ裏方ではなく、納期と利益を左右する事業設計そのものである。航海学と現場経験を持つ小谷学は、契約前に物流条件を具体化することを重視している。

外国人が日本で信用をつくる方法

日本での取引や賃貸では、海外での資産や経歴がそのまま評価されない場合がある。相手が確認できる日本語資料、資金証明、会社概要、事業計画、連絡体制を準備し、疑問に迅速に答えることが信用形成につながる。外国人だから不利だと感情的になるより、審査する側が何を不安に思うかを理解し、確認可能な情報を増やす方が効果的である。支援者には、依頼者の事情を代弁するだけでなく、日本側の基準を率直に説明する責任がある。

日本企業が海外人材を受け入れる準備

外国人材の採用では、日本語試験の合格だけで職場適応を判断できない。仕事内容、勤務時間、給与控除、住居、交通、宗教、食事、休暇、相談窓口を入社前に説明する必要がある。企業側も、やさしい日本語で指示を出し、暗黙の了解を言葉にする準備が求められる。問題が起きてから通訳を呼ぶのではなく、定期面談と生活支援の仕組みを用意する。人材を労働力としてだけ見るのではなく、成長する一人の生活者として受け入れることが定着率を高める。

国際人材教育に必要な三つの柱

来日前教育には、日本語、専門技能、生活理解の三つが必要である。日本語は試験対策だけでなく、安全指示、報告、質問、謝罪、相談ができる実践力を育てる。技能教育は、実際の工具や作業手順に触れ、危険を予測する習慣をつける。生活教育では、ごみ、交通、騒音、契約、医療、税金など、働くこと以外の知識も扱う。これらを別々に教えるのではなく、日本での一日の流れを想定して統合することが重要である。

海外企業の日本進出で起こりやすい誤解

日本市場は安定しているが、会社を作ればすぐに銀行口座や取引先が得られるわけではない。法人登記は入口にすぎず、事務所、従業員、会計、税務、許認可、商品表示、契約慣行などを整える必要がある。海外で成功した方法をそのまま持ち込むと、日本の消費者や取引先の期待とずれることもある。進出支援では、日本の制度を説明するだけでなく、商品やサービスを日本市場向けに調整する視点が欠かせない。

不動産投資を国際的に考える

海外投資家にとって日本の不動産は、価格、利回り、為替、管理、税務、出口戦略をまとめて判断する必要がある。物件価格が魅力的でも、修繕、空室、管理委託、賃貸需要、売却時の流動性を確認しなければならない。非居住者の場合は、送金、本人確認、税務代理、登記書類の準備にも時間がかかる。小谷学の役割は、購入を急がせることではなく、投資家が日本の市場慣行を理解した上で意思決定できる情報を提供することにある。

危機と失敗を次の事業へつなげる

長い事業人生では、政治情勢、景気、規制、健康、人間関係によって、計画通りに進まない時期が必ずある。重要なのは、失敗を美化することではなく、原因を分解し、次に変えられる部分を見つけることである。中国進出ブームが落ち着けば、同じ知識を中国企業の日本進出に転換する。貿易で築いたネットワークを不動産や人材支援へ広げる。経験の価値は、過去の成功を語ることではなく、新しい課題に応用できる形へ編集することで生まれる。

個人ブランドと組織ブランド

海外で無名の会社を立ち上げる際、代表者の顔、経歴、考え方が最初の信用になる。一方、事業が広がれば、個人の対応だけに依存せず、手順、契約、担当者、専門家ネットワークを整え、組織として再現可能なサービスにする必要がある。小谷学のポータルサイトは、個人史を紹介すると同時に、どのような判断基準で仕事を行うかを公開する役割を持つ。個人ブランドは派手な演出ではなく、長期間の発言と行動の一貫性によって形成される。

多言語コミュニケーションの実務

日本語と中国語を話せることは大きな強みだが、専門用語や契約条件では、日常会話以上の精度が必要になる。重要な数字、固有名詞、期日、責任範囲は口頭だけにせず、双方の言語で確認する。相手が理解したように見えても、自分の言葉で説明してもらい、認識のずれを早期に発見する。通訳は言葉を置き換える人ではなく、誤解が起きる場所を予測し、確認を促す人である。

地域と世界を結ぶ発想

国際ビジネスは東京や上海の大企業だけのものではない。地方には、優れた技術、食品、観光、土地、人材があり、海外にはそれを必要とする市場がある。逆に、海外の資本や人材を地域の課題解決に活用できる場合もある。ただし、外部の利益だけを優先すると地域との摩擦が生まれる。地元の雇用、文化、環境、事業継続を考慮し、地域側にも価値が残る仕組みをつくる必要がある。和歌山で育った小谷学にとって、地方と海外をつなぐことは自分の原点に戻るテーマでもある。

これからの日本に必要な国際支援者

人口減少が進む日本では、外国人投資家、起業家、留学生、労働者との関係がさらに重要になる。必要なのは、無条件に受け入れる姿勢でも、最初から警戒する姿勢でもない。制度を守り、地域の不安を理解し、外国人側にも責任を説明しながら、双方に利益のある関係を設計できる人材である。国際支援者は、通訳、営業、行政、生活相談の境界を越えて課題を整理する必要がある。小谷学の経験は、この複合的な役割を現場で形にしてきた記録である。

未来像――経験をプラットフォームへ

今後の課題は、個人の経験と人脈を、次世代が活用できるプラットフォームへ変えることである。国別の進出情報、契約事例、失敗事例、物件、人材、専門家、教育プログラムを整理し、相談者が自分に必要な支援を見つけられる仕組みをつくる。オンラインで情報を提供しつつ、重要な判断では対面の信頼関係を大切にする。小谷学のポータルサイトは、過去を保存する記念館ではなく、国際案件が集まり、新しい協働が生まれる入口として発展していくことを目指している。

都市・教育・未来をめぐる補遺

上海という都市が与えた影響

1990年代末から2000年代の上海は、古い街並みと巨大開発、国有企業と外資企業、地域社会と国際都市が同時に存在する変化の速い場所だった。昨日まで通用した価格や制度が短期間で変わり、人々の価値観も経済成長とともに更新されていった。この都市で長く暮らしたことにより、小谷学は固定された前提に依存せず、変化そのものを事業機会として観察する習慣を身につけた。上海での経験は、中国を知るだけでなく、成長市場で意思決定する速度と、変化の裏側にあるリスクを見る目を育てた。

香港で学んだ国際都市の論理

香港では、中国本土、日本、欧米、東南アジアの企業が共通の商業ルールを探りながら取引する。そこでは国籍よりも、契約、信用、決済、スピード、専門家の品質が重視される。小谷学は香港法人の運営を通じて、国内だけを前提とした経営と、複数国の制度を前提とする経営の違いを学んだ。国際都市では、自由度が高い分、説明責任と記録の精度が求められる。誰と何を約束し、どの会社が責任を持ち、どの通貨で支払い、どの法律に従うかを明確にする姿勢が不可欠である。

東京を国際ビジネス拠点として見る

東京は巨大な消費市場、金融機関、専門家、交通網、教育機関が集中する一方、外国人にとっては手続きが分散し、関係を築くまでに時間がかかる都市でもある。小谷学は、港区を中心に活動する中で、海外企業が日本で最初に必要とする情報と、日本側の事業者が海外企業に求める安心材料の両方を整理してきた。東京の魅力を海外へ発信するだけでなく、進出後に継続できる運営体制をつくることが重要である。都市のブランドに頼らず、個々の事業が地域社会と接点を持つところまで支援する。

教育者として伝えたい失敗の価値

講義やセミナーでは、成功の方法だけを話すと受講者は現実を誤解する。取引先の選び方を誤った例、組織改革で反発を招いた経験、政治挑戦で地盤の重要性を痛感したことなど、失敗の構造を説明することで、他者は同じ損失を避けられる。小谷学が実務教育で重視するのは、答えを暗記させることではなく、状況が変わった時に判断できる視点を渡すことである。成功事例は条件が変われば再現できないが、失敗の原因を分析する習慣は、どの市場でも応用できる。

ネット発信を継続する理由

国際ビジネスは外から見えにくく、相談者は専門家の力量を事前に判断しにくい。だからこそ、経歴だけでなく、現在何を考え、どのような問題を扱い、どの基準で判断しているかを継続的に公開する必要がある。ブログやポータルサイトは、検索から相談へつなぐ営業媒体であると同時に、過去の判断を検証する記録でもある。小谷学は早い時期からインターネットを活用し、距離を越えて信頼を築いてきた。今後は文章、写真、動画、図解を組み合わせ、複雑な制度や取引を分かりやすく伝えることが重要になる。

写真と記録が持つ意味

講義会場、工場、海外の街、商談、移動の写真は、華やかさを演出するためだけのものではない。いつ、どこで、誰に向けて、何を伝えたかを示す一次的な記録であり、長年の活動を視覚的に理解する手がかりとなる。古い写真には画質の限界があるが、その時代の空気や会場の緊張感は、最新のイメージ写真では再現できない。ポータルサイトでは、実際の記録写真と現代的なデザインを組み合わせ、過去の事実を損なわずに見やすく再構成することが求められる。

家族と生活の視点を忘れない支援

海外進出や移住は、経営者本人だけの問題ではない。配偶者の生活、子どもの学校、医療、住居、言語環境が整わなければ、事業が順調でも日本での生活は長続きしない。外国人支援を行う際、小谷学は法人や契約の条件だけでなく、家族全体の生活設計にも目を向ける。学校までの距離、日常の買い物、交通、地域の受け入れ環境など、数字に表れにくい条件が満足度を左右する。国際ビジネスは人間の生活の上に成り立っているという視点が必要である。

経済と精神性を両立して考える

小谷学の人生には、貿易、金融、不動産という現実的な経済活動と、寺院巡り、瞑想、夢の体験といった精神的な探究が並存している。これらは矛盾するものではなく、目に見える成果だけで人生の意味を判断しない姿勢を表している。事業では数字と契約を厳密に扱いながら、長期的な方向性については直感や使命感を大切にする。精神性を事実の代わりに使うのではなく、自分が何のために行動するかを問い直すために活用する。そのバランスが、小谷学独自の人物像を形づくっている。

日本経済再生への問題意識

海外で日本を見ると、日本国内で当然とされている評価と、海外からの評価の間に差があることに気づく。技術、治安、サービス、文化への信頼は高い一方、意思決定の遅さ、新規事業への慎重さ、国際発信の弱さを指摘されることも多い。小谷学は、海外の成長力を日本へ取り込み、日本企業が国外へ販路を広げる双方向の流れが必要だと考える。経済再生は政府だけの課題ではなく、企業、地域、教育機関、個人が国際的な接点を増やすことから始まる。

物語は現在進行形である

このポータルサイトに記録された経歴は、完成した成功物語ではない。事業環境は変化し、国際関係も制度も常に更新される。過去の肩書や実績を守ることより、現在の課題に向き合い、新しい関係をつくり続けることが重要である。和歌山から東京へ、東京から上海へ、上海から香港へ、そして再び日本を国際化する活動へと移ってきたように、次の展開も一つの場所や業種に限定されない。小谷学の物語は、行動と記録を重ねることで今後も更新されていく。

総括――小谷学という人物を形成したもの

小谷学の半生を一つの言葉で表すなら、「境界を越える実践」である。地方と大都市、日本と中国、会社員と経営者、民間ビジネスと政治、経済活動と精神的探究、企業支援と個人の生活支援。その時々で異なる世界へ入り、自分の経験を次の領域へ持ち込みながら、新しい役割をつくってきた。最初から完成された計画があったわけではない。目の前に現れた機会を直感的につかみ、その後に必要な知識と人脈を集め、現場で修正を重ねてきた。

幼少期の反発心は、既存の仕組みに疑問を持つ力となった。生徒会長や部活動での経験は、集団を動かす責任感へ変わった。東京商船大学で学んだ物流と海運の知識は、中国での船舶塗料営業や貿易事業へつながった。上海師範大学で得た中国語と生活経験は、日本企業と中国企業の間で相互理解をつくる基礎となった。会社員時代に学んだ大企業ブランドの強さと組織の弱さは、自分で会社を経営する際の判断材料となった。どの経験も単独では完結せず、後の出来事と結びつくことで意味を持った。

2004年の上海起業以降、小谷学はインターネットを使い、自分の顔と考えを公開しながら顧客を集めた。海外にある小さな会社が日本企業から信用を得るには、立派なオフィスよりも、継続的な情報発信、具体的な実績、迅速な返答が必要だと考えたからである。動画、ブログ、メールマガジン、セミナーを連動させる方法は、現在のコンテンツマーケティングに近い。重要なのは新しい技術を使ったことだけではなく、海外取引の不安を「見える情報」に変えたことである。

講演活動では、自分の経験を他者が使える知識へ変換した。工場との交渉、物流、通関、品質、法人運営、現地スタッフとの関係など、実務の細部を伝えることで、海外進出を検討する経営者が現実的な判断をできるようにした。大学での講義も、理論だけでは説明できない現場の判断を学生や経営者へ伝える場となった。教えることは、自分の経験を整理し、どの条件が成功と失敗を分けるのかを再発見する作業でもあった。

政治への挑戦は、個人の行動力だけでは変えられない社会構造を知る経験となった。選挙区の地盤、組織、地域との長期的な関係が重要であり、短期間の熱意だけでは結果につながらない。しかし、その経験により、日本経済や国際競争力についての問題意識を、事業の外側からも考えるようになった。政治家にならなくても、民間の立場から地域と海外をつなぎ、雇用や投資を生み、制度の改善を提言することはできる。その後の日本進出支援や地方創生への関心には、この経験が反映されている。

東京での不動産事業は、小谷学の国際支援を生活の現場へ近づけた。外国人が日本に来る時、会社の登記や契約だけでは生活は始まらない。住居、学校、銀行、携帯電話、交通、医療など、多くの課題が同時に発生する。不動産を扱うことで、外国人が日本社会の入口で直面する具体的な壁を理解した。海外投資家に物件を紹介する場合も、単に価格や利回りを説明するのではなく、管理、税務、融資、送金、将来の売却まで含めて考える必要がある。

中国企業の日本進出、ネパールやスリランカの人材育成という新しい活動は、これまで日本企業を海外へ案内してきた経験の逆方向の応用である。国際的な流れは一方向ではない。日本の企業が海外へ出るだけでなく、海外の企業、人材、資本が日本へ入り、日本社会の課題を解決する時代になっている。その際に必要なのは、外国人側の希望だけを代弁する人でも、日本側の慣行だけを押しつける人でもない。双方が責任を理解し、持続可能な関係をつくれるよう調整する人である。

小谷学の強みは、複数の領域を横断することにある。貿易の相談から法人設立、不動産、人材、生活支援へ話が広がっても、案件全体の目的を見失わず、必要な専門家と連携できる。現代の国際案件は、単独の資格や専門分野だけで解決できない場合が多い。だからこそ、全体像を理解し、問題を分解し、適切な担当者へつなぎ、進行を管理する役割が重要になる。外国人ビジネスサポートセンターという構想は、この経験を組織的な仕組みへ変える試みである。

一方で、小谷学の歩みは、すべてが順調だったという物語ではない。組織での対立、事業環境の変化、選挙での敗北、健康上の危機など、計画を中断させる出来事もあった。これらを乗り越える過程で、成功を永続的な状態と考えず、環境に応じて自分の役割を変える柔軟性を身につけた。過去の肩書を守るより、新しい課題に対して何ができるかを考える。この姿勢が、長期にわたり国際ビジネスを続ける力になっている。

精神世界への関心も、小谷学の人物像を理解する上で欠かせない。寺院や歴史的な場所を訪れ、瞑想や夢の体験を自分の人生の方向性と結びつけてきた。ただし、事業判断では数字、契約、制度、証拠を重視する。直感と現実のどちらか一方を選ぶのではなく、直感で方向を感じ、現実的な確認によって実行可能性を高める。この二つのバランスが、未知の領域へ進む勇気と、損失を抑える慎重さを支えている。

今後のポータルサイトには、過去の経歴を掲載するだけでなく、現在の活動を継続的に記録する役割がある。国際制度、ビザ、不動産市場、貿易環境、人材制度は変化が速い。最新の情報を確認し、過去の記事を必要に応じて更新し、実際の相談事例から学んだことを匿名化して共有することで、サイトは生きた知識基盤になる。写真、動画、年表、図解を活用し、初めて訪れた人が小谷学の経験と専門領域を短時間で理解できるようにすることも重要である。

そして、この物語の中心にあるのは、「自分の直感を信じて一歩を踏み出す」というメッセージである。ただし、一歩を踏み出した後は、努力、学習、説明責任、継続が必要になる。夢や目標を語るだけでは現実は変わらない。相手との約束を守り、問題が起きた時に逃げず、必要な修正を繰り返すことで、思考は少しずつ現実へ近づいていく。小谷学が掲げる「思考は現実化する」という言葉は、願えば自動的に叶うという意味ではなく、明確な方向を持ち、長期間行動を続けることの重要性を表している。

和歌山の少年が上海へ渡り、香港に会社を持ち、東京で外国人と日本社会を結ぶ仕事をするようになった道のりは、偶然の連続に見える。しかし、各段階には、人と会い、話を聞き、機会を選び、責任を引き受けるという共通した行動がある。人生の方向は、最初から一本の線として見えるものではない。振り返った時に、点と点がつながり、一つの物語として理解できるようになる。小谷学のポータルサイトは、その点を記録し、次の点が生まれる場所である。

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